2011   2010   2009   2008   2007   2006        
分子アンサンブル制御・開発研究
Molecular Ensemble Development Research
  1. 分子デバイスのための基礎研究
    (1) 分子性導体の基板上電界効果測定と有機モット・トランジスタの実現
    (2) 強相関分子性導体における歪み誘起モット転移
    (3) 2,5-ジハロピリジニウムカチオンを有するNi(dmit)2アニオンラジカル塩の創成
    (4) ダイアモンドアンビルセルを用いた超高圧下での分子性導体β'-Et2Me2P[Pd(dmit)2]2の電気的性質
    (5) α-Me4N[Pd(dmit)2]2の低温構造および高圧下での電気的性質
    (6) フッ素化されたアンモニウムを有する金属dmit錯体塩の電気伝導性
    (7) ダイマーモット絶縁体の誘電異常
    (8) 分子薄膜中の電場による電子状態変化
  2. 新構造・新機能を有する有機金属錯体の開発
    (1) Cp配位子、non-Cp配位子を有する多核希土類ヒドリド錯体の合成と構造
    (2) 有機金属錯体を基盤とする新規発光材料の開発
  3. タンパク質機能制御の研究
    (1) プロテインキナーゼCα阻害剤、IB誘導体の阻害メカニズム解析
    (2) ジオキシゲナーゼと低分子化合物の相互作用解析
  4. 蛍光タンパク質の開発
    (1) 蛍光タンパク質Dronpaの多量体化と光switching特性
    (2) フォトクロミック蛍光タンパク質Dronpaの暗状態の構造決定
分子アンサンブル測定・解析研究
Molecular Ensemble Analysis Research
  1. 放射光X線を用いた機能性分子システムの局所電子状態解析
    (1) 環境応答型細胞情報伝達系における分子間・分子内相互作用の研究
    (2) 生体内の鉄輸送の分子論
    (3) 電荷移動型分子性結晶における静電相互作用の可視化
    (4) 分子性物質を対象とした超低温高圧下X線回折装置およびX線磁気回折法の開発
  2. 軟X線発光分光、角度分解光電子分光によるアミノ酸・タンパク質、分子性結晶の電子状態の研究
    (1) 角度分解光電子分光による擬1次元有機導体の電子構造
    (2) 溶液中のアミノ酸、ポリペプチドの電子状態
    (3) 大規模数値計算による金属タンパク質の電子状態の理論解析
  3. 機能性分子系の局所磁気状態の解明
    (1)STMを用いた単一スピン検出
    (2)収量検出磁気共鳴・過渡光吸収検出による2・3 スピン連携
  4. 分光法による機能性分子系の研究:界面選択的偶数次非線形分光の応用
  5. 多重極限μSR実験装置の開発研究
    (1) 新しいμSR分光器の開発
    (2) ガス加圧型汎用測定装置開発
    (3) 量子スピン液体の基底状態の研究


分子アンサンブル制御・開発研究
局所電子状態、分子間相互作用を設計・制御することによって新しい分子化合物や分子機能を開発することを目指す。大きな目標として、以下の2つのテーマを2本柱とする。
 ・分子デバイス実現に向けての基礎の確立
 ・触媒機能の制御と高度化(有機金属触媒、タンパク質機能制御)

  1. 分子デバイスのための基礎研究
    (1) 分子性導体の基板上電界効果測定と有機モット・トランジスタの実現
    研究担当者:山本、川椙、上野、須田、木村、田嶋(尚)、加藤;(加藤分子物性研究室)
    強相関分子性導体(モット絶縁体)の薄膜単結晶を用いてFETを作製し、その特性解明と動作原理の検証を行った。これまでの研究で、κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Brの薄膜単結晶をSiO2/Si基板に張り付けると低温でモット絶縁状態が実現しn型のトランジスタ動作が可能となることが明らかとなっている。今年度は、フェルミ面の異方性に起因するキャリア特性を検出することを目的とし、ゼーベック係数を測定した。その結果、トランジスタがOFFの状態ではa軸方向、c軸方向ともに正のゼーベック係数を示すのに対して、トランジスタがONになるとa軸方向では正、c軸方向では負のゼーベック係数が観測されることが明らかとなった。これはゲート電界により静電キャリアが注入された結果、モット絶縁体界面でモット転移が誘起され、ハバードバンドが壊れると同時に元の金属的バンドが復活したためと解釈できる(図1)。一方、類縁物質であるκ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clを用いたFETも作製し、その動作を解析した。このトランジスタでは常に両極性動作が確認されたため、最も伝導率の低いゲート電圧を正確に電荷中性ゲート電圧として定義できる。この点を利用してモット絶縁体近傍での伝導率変化の解析を行い、モット絶縁条件(ちょうどバンド充填率が1/2)から外れたところではクーロンギャップを仮定することにより温度依存性やゲート電圧依存性が説明可能であることが明らかとなった。
    ( BEDT-TTF = bis(ethylenedithio)tetrathiafulvalene, FET = Field Effect Transistor )


    (2) 強相関分子性導体における歪み誘起モット転移
    研究担当者:須田、山本、加藤(加藤分子物性研究室)
    強相関分子性導体κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clは、低温においてモット絶縁相に位置し、圧力の印加により超伝導相へとバンド幅制御型のモット転移を起こす。本研究では、新たに結晶への歪みの印加によるモット転移の可能性を着想し、実際に歪み誘起モット転移を観測した。κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clの薄膜単結晶をプラスチック基板上に貼り付け、背面からナノポジショナーによって基板を湾曲させることにより歪みを印加した。基板上の結晶は、基板からの加圧効果により、約11Kでパーコレート超伝導へと転移した。各温度における歪み掃引による抵抗値測定の結果を図3に示す。40K以上において抵抗値が歪みの印加にともないなだらかに増加した一方で、37.5K以下では、急激な抵抗値の変化とともに金属(超伝導)から絶縁体へと転移した。このことは、37.5~40Kの間に歪み誘起金属(超伝導)−絶縁体転移の臨界終点が存在することを意味しており、観測された歪み誘起相転移が歪みの印加によるバンド幅制御型モット転移であることを示している。この結果により、基板上分子性導体に対するバンド幅とバンドフィリングの同時制御が可能となり、新たな相転移型デバイスの実現が期待される。


    (3) 2,5-ジハロピリジニウムカチオンを有するNi(dmit)2アニオンラジカル塩の創成
    研究担当者:草本、山本、田嶋(尚)、大島、加藤(加藤分子物性研究室)
    我々は近年の研究において、アルキルジハロピリジニウムを対カチオンとする一部の[Ni(dmit)2]2-アニオンラジカル塩が、単一の結晶内に二種類の異なったアニオン層を有するという「Bi-layer system」を形成することを明らかにした。例えばメチル-3,5-ジヨードピリジニウムからなる塩は、二次元遍歴電子系を形成する層と、モット絶縁化による局在スピン系を形成する層が同一結晶内に共存する、「デュアル機能 電子系」を構築している。この塩では、カチオンのヨウ素原子とアニオンの硫黄原子間に働くハロゲン結合が、Bi-layer systemの構造形成に重要な役割を担っていると考えられる。そこで本研究ではBi-layer systemをより発展させることを目的として、非対称カチオンであるエチル-2,5-ジブロモピリジニウム(Et-2,5-DBP)からなる[Ni(dmit)2]2-アニオンラジカル塩を新規に合成した(図4)。単結晶構造解析の結果、(Et-2,5-DBP)[Ni(dmit)2]2では、単位格子中に結晶学的に独立な二つのNi(dmit)2アニオン(AおよびB)がそれぞれ独立した層を形成しており、この塩がBi-layer systemを形成していることが明らかとなった(図5)。またカチオンの2位の臭素原子―アニオンの硫黄原子間に有効なハロゲン結合が見られた。バンド計算、伝導度測定、および磁化率測定の結果、この塩では独立な二つのアニオン層がともにMott絶縁化状態にあり、今までにない電子状態を有するBi-layer systemであることが示唆された。この塩を基本として、カチオンの臭素原子を他のハロゲン原子に置換した[Ni(dmit)2]2-塩について調べることで、ハロゲン結合が構造および物性におよぼす効果を検討した。その結果、2位をヨウ素原子に置換したEt-2I-5BrP塩は、Et-2,5-DBP塩と同様の結晶構造を形成するにもかかわらず、両塩の磁気特性は大きく異なっていることが明らかとなった。一方、5位をヨウ素原子に置換したEt-2Br-5IP塩では、2位、5位の両ハロゲン原子がアニオンの硫黄原子とハロゲン結合を形成し、Et-2,5-DBP塩とは異なった結晶構造、すなわち一種類のアニオン層からなるMono-layer systemを形成していた。


    (4) ダイアモンドアンビルセルを用いた超高圧下での分子性導体β'-Et2Me2P[Pd(dmit)2]2の電気的性質
    研究担当者:崔、加藤(加藤分子物性研究室)
    最近、金属錯体Pd(dmit)2のアニオンラジカル塩においてスピン液体状態やValence bond solid状態などの新しい物性が数多く発見されてきた。この系の錯体は常圧ではモット絶縁体であるが、少し圧力をかけることにより、金属性や超伝導を示す。最も高い反強磁性転移温度を示すMe4P塩に比べ、比較的小さいバンド幅と低い反強磁性転移温度を有するEt2Me2P塩は1GPa下で一旦超伝導体になるが、さらに高い圧力をかけると低温領域において非金属の領域が現れる。キュービックアンビルを用いた測定では8万気圧まで完全な金属化を実現できなかった。今回、ダイアモンドアンビルセルを用いた新しいサンプリング方法を利用し、15.8 GPaまでの電気抵抗を測定し、13.6 GPa下でHOMO-LUMOの重なりに由来する新しい金属状態を示すことを明らかにした。
    ( dmit= 1,3-dithiole-2-thione-4,5-dithiolate )



    (5) α-Me4N[Pd(dmit)2]2の低温構造および高圧下での電気的性質
    研究担当者:崔、田嶋(陽)、大島、加藤(加藤分子物性研究室)
    準三角格子を持つ、金属錯体Pd(dmit)2のアニオンラジカル塩において、最近、カチオンの嵩高さなどを制御することによりスピン液体状態やValence bond solid状態などの新しい電子相が数多く発見されて来た。この系の多くは常圧でモット絶縁体であるが、比較的低い圧力をかけることにより、金属性、さらには超伝導を示す。その中で、α-Me4N[Pd(dmit)2]2は、温度降下にともない、110K 付近で構造相転移をともなう半導体?半導体転移を示し、30K 付近から一旦金属的に振る舞った後、10K 以下でさらに絶縁化するという不思議な性質を持っている。低温構造解析を行った結果、この結晶は110K以下では空間群は を保ったまま、単位格子がa=a0+b0、b=-a0+b0 となり、各伝導層が二つの結晶学的に独立なPd(dmit)2分子を含む。Layer Bでは、Pd(dmit)22量体内の面間距離に顕著な差が見られ、Et2Me2Sb塩と同様の電荷分離が起こっていると考えられる。これが、電気抵抗率の急激な立ち上がりに対応していると言える。しかし、この電荷分離は30K 付近では消失し始めていくため、電気伝導性が良くなり金属的に振る舞う。さらに、10K 付近では電荷分離が再び現れるため、絶縁化が起こることが判明した。一方、Layer Aでは、温度変化にともなう2量体内の面間距離の変化はほとんど見られない。ダイアモンドアンビルセルを利用した超高圧下での電気抵抗測定では9.3GPa で電荷分離が完全に抑えられることによって金属になることを観測した。
    ( dmit= 1,3-dithiole-2-thione-4,5-dithiolate )



    (6) フッ素化されたアンモニウムを有する金属dmit錯体塩の電気伝導性
    研究担当者:野村、田嶋(陽)、崔、大島、山本、加藤(加藤分子物性研究室)
    従来から知られているジチオレン錯体系-超伝導体塩(R4E)[M(dmit)2]2 (E = N、P、As、Sb; Ni、Pd、Pt、Au)の分子修飾を試みた。この錯体塩の修飾可能な部位は多く、@対カチオンR4E+の修飾、A中心遷移金属の選択、Bdmit (C3S52-)配位子内の硫黄原子を他のカルコゲン原子(主にセレン)に置換する手法などが挙げられ、膨大な種類の分子性(超)導体の設計が可能である。対カチオンR4E+部位の分子サイズを大きくすると結晶構造が変化し、超伝導体特有の分子配列(βあるいはβ'型)を得られなくなる。そこで、アルキル基Rにサイズの小さなフッ素原子を導入する「微細なサイズ変化」を与えることで、新たな分子性導体塩の開発を試みた(図8)。フッ素化されたアンモニウムを有する β-[Me3(CH2F)N][Pd(dmit)2]2の結晶構造は、フッ素化されていない塩(β-Me4N塩)と同形であった(図9)。これは、両者の分子サイズが似ていることから、フッ素の「ミミック効果」により同形の結晶が得られたと推測している。しかし、これらの結晶学的な類似性に反し、両者の電子物性には大きな違いが見られた。[Me3(CH2F)N]塩の電気伝導度および(圧力下での)超伝導転移温度は、対応するMe4N塩のそれらよりも向上した(図10)。また、一連のβ-あるいはβ'-(R4E)[Pd(dmit)2]2塩が常圧下においてモット絶縁体であるのに対し、β-[Me3(CH2F)N][Pd(dmit)2]2塩では常圧下において金属的な振る舞いを示す(図10)。同様に[Me3(CH2F)N]カチオンを含む[Pt(dmit)2]2錯体塩、セレン類似体[Pd(dsit)2]2塩(図8)においても同形の結晶( 型)が得られ、常圧下において金属的な挙動を示すことがわかった。すなわち、対カチオンへのフッ素原子の導入は、優れた電子物性を有する新規な[M(dmit)2]電気伝導体開発の有用な手法と期待される。




    (7) ダイマーモット絶縁体の誘電異常
    研究担当者:Abdel Jawad、田嶋(尚)、 加藤(加藤分子物性研究室)
    分子が2量体を形成し、2量体1個あたり1個の電子を有するダイマーモット絶縁体の誘電率を調べ、特殊な誘電応答を見いだした。この誘電異常の周波数および温度依存性は、リラクサー誘電体に見られる誘電分散とよく似ており、また、異常の始まる温度は電荷ギャップにスケールされる(図4、5)。このような誘電特性は、分子2量体構造を有する分子性導体に広範に見られ、結晶中に電気双極子モーメントが生じていることを示唆している。この起源については未だ明確ではないが、誘電率の磁場依存性がないことからも、スピン由来ではなく電荷由来であることが示唆される。今後、さらに詳細な実験を行い、この誘電異常の起源を明らかにする予定である。



    (8) 分子薄膜中の電場による電子状態変化
    研究担当者:川合、加藤(川合表面化学研究室)
    近年、有機薄膜トランジスタ(有機TFT)の性能が飛躍的に向上している。しかしこの一方で、駆動中の電子状態については、未だ不明なところが多い。そこで、電場印加状態における有機薄膜の電子状態を、独自に立ち上げた蛍光収量法によるX線吸収分光(FY-XAS)によって調べた。この手法は、従来の電子収量法による測定とは異なり、薄膜内部の電子状態を観測できるほか、電場によって信号が歪められる懸念が無いため、理想的な測定手法である。
    これまでの実験では、有機TFTによく用いられるペンタセン薄膜の電子状態をFY-XASによって調べたてきた。これと対比して、アルキル基を配したオリゴチオフェン誘導体(DH6T)薄膜のFY-XASを行った(図13)。図aにはバイアスを0Vと-90Vに印加した時のスペクトルを重ねて示し、図bにはそれらの差スペクトルを拡大して示してある。差スペクトルの特徴として、基のオリゴチオフェンのスペクトルと大きく異なることが明らかである。このスペクトル形状は、アルキル基のXASスペクトルと酷似しており、アルキル基に電界効果が集中していることが示唆される。すなわち、分子薄膜中における電場分布は一様でなく、特定の部位に集中していると考えられる。このことは、分子デバイスの電子状態をデザインする上でとても重要であり、今後も精査・検討を進める必要がある。











  2. 新構造・新機能を有する有機金属錯体の開発
    (1) Cp配位子、non-Cp配位子を有する多核希土類ヒドリド錯体の合成と構造
    研究担当者:侯、西浦、島、程(侯有機金属化学研究室)
    希土類金属1つに対して1つの支持配位子を有するジヒドリド種"(L)LnH2"は安定な多核構造を形成するため、2つの支持配位子を持つモノヒドリド種"(L)2LnH"とは全く異なる構造、反応性を示し、近年注目されている。シクロペンタジエニル配位子(Cp)を有するジヒドリド種は、これまでC5Me4SiMe3のような嵩高い配位子を有しかつ比較的イオンサイズの小さい希土類金属からなる四核ヒドリド錯体にほぼ限られていた。本年度の研究では、ビス(アミノベンジル)錯体[(C5Me4R)Ln(CH2C6H4NMe2-o)2] (Ln = Sc, Y, La~Lu; R = SiMe3, Me, Et, H)を用いることにより、C5Me4SiMe3基のみならず、C5Me5基やC5Me4H基などを有する新たな四核、五核、六核の希土類ヒドリド錯体の合成に成功し、またこれまで得られなかったランタンLaなどの大きなイオン半径の金属を有するポリヒドリド錯体[(C5Me4SiMe3)LaH2]4(THF)2の合成も実現した(図14)。これら新規希土類ヒドリド錯体の反応性、性質などについて現在研究を進めている。


    また、同様な手法により、非シクロペンタジエニル系配位子を持つ希土類ポリヒドリド錯体として、ピンサー型PNP配位子を有する三核希土類ヒドリド錯体[(Me-PNPiPr)LnH2]3 (Me-PNPiPr = {4-Me-2-(iPr2P)-C6H3}2N); Ln = Y, Lu) (図15)やカチオン性二核ポリヒドリド錯体[(Me-PNPiPr)2Ln2H3(THF)2][BPh4]の合成にも初めて成功した(図16)。




    (2) 有機金属錯体を基盤とする新規発光材料の開発
    研究担当者:侯、西浦、瀧本、Rai(侯有機金属化学研究室)
    トリス(フェニルピリジン)イリジウム(III)錯体[Ir(ppy)3]のような、ホモレプテックなキレート型遷移金属錯体は、近年有用な燐光有機EL材料として注目されている。しかし、このような、同じ配位子を3個持つ錯体は、合成や物性の制御などにおいて様々な制限がある。当研究室は最近、キレート配位子を2個持つイリジウム錯体種[Ir(ppy)2]に補助配位子としてアミジナートなどの窒素含有配位子を導入すると、錯体の発光効率などが大きく改善できることを見いだした。本年度の研究では、新たに2,2'ジピリジルアミン(dpa)配位子を導入した中性のイリジウム錯体[Ir(ppy)2(dpa)]の合成に成功した。この錯体は高いエネルギー効率(123.5 cd/A)で強く緑色発光する(43.2 lm/W) (図17)。この錯体をCBP(4,4'-N,N'-dicarbazoylbiphenyl)にドーピングしたものを発光層とした有機ELデバイスでは、5%ドーピングしたデバイスが最も発光効率の良い緑色の光励起発光を示すことが明らかになった(図17)。これは錯体の発光寿命が短く、三重項―三重項消滅を大きく減らせるためと考えられる。今後、様々な配位子を持つ類縁錯体を合成し、さらなる効率化などを目指す。


  3. タンパク質機能制御の研究
    (1) プロテインキナーゼCα阻害剤、IB誘導体の阻害メカニズム解析
    研究担当者:田村、酒井、平井、袖岡(袖岡有機合成化学研究室)
    プロテインキナーゼC(PKC)はタンパク質リン酸化酵素であり、その活性化にはC1ドメインリガンド、カルシウムイオン、およびホスファチジルセリンが必要である。C1ドメインリガンドとして、生理的リガンドのジアシルグリセロールや、発がんプロモーターであるホルボールエステルなどが知られており、これらはPKC活性化剤として働く。一方我々は、C1ドメインリガンドであるIB誘導体(IB-6A、IB-15A)が、PKCαを活性化せず、ホルボールエステルによるPKCα活性化を阻害することを見いだしていた。また昨年までの検討によって、これらの化合物はホスファチジルセリンとPKCαとの相互作用に影響を与えて、阻害活性を示している可能性が示唆されたことから、今年度はビアコアを利用してこの相互作用の詳細な解析を行った。その結果、既知のPKC阻害剤であるD-erythro-Sphingosineとsafingolは、ホスファチジルセリンとC2ドメインの結合を阻害することが明らかとなったが、IB-15AはホスファチジルセリンとC1ドメインの結合を阻害する可能性が示唆された。

    (2) ジオキシゲナーゼと低分子化合物の相互作用解析
    研究担当者:奥村、長田(長田抗生物質研究室)
    糸状菌Aspergillus fumigatusが産出する天然化合物の生合成経路研究において、鉄およびα-ケトグルタル酸を補因子とするジオキシゲナーゼが存在し、分子内に二酸素原子による架橋形成を触媒することが明らかになった。分子内に二原子酸素架橋を持つ天然化合物はあまり知られておらず、これを触媒する酵素としては二例目のものである。このユニークな反応は大変興味深いものであり、その反応機構を明らかにするために、このジオキシゲナーゼの結晶構造解析を行った。得られた構造によって、既知のジオキシゲナーゼとは異なり基質認識にはダイマー構造が必須であることが示唆された。さらに反応機構を明らかにすべく反応中間体状態の捕捉、結晶化研究を進めている。

  4. 蛍光タンパク質の開発
    (1) 蛍光タンパク質Dronpaの多量体化と光switching特性
    研究担当者:水野、深野、 宮脇(細胞機能探索技術開発チーム)
    photochromicな蛍光タンパク質Dronpaのある変異体で、濃度が上がると多量体化が進むこと、多量体化が進むとphotoswitchのスピードが遅くなることを明らかにした。また、PALMで四量体でphotoswitchの遅いフォトクロミック蛍光タンパク質22Gを用いると、switching cycle当たりに放出されるphoton数がより多いため、より高解像度の画像を得られることを示した。

    (2) フォトクロミック蛍光タンパク質Dronpaの暗状態の構造決定
    研究担当者:水野、深野、 宮脇(細胞機能探索技術開発チーム)
    蛍光タンパク質Dronpaは、光照射によって明状態と暗状態とを可逆的に遷移するフォトクロミズムを示す。しかし、暗状態は準安定であるために、時間の経過とともに徐々に明状態に戻ってしまい、長時間の測定を要するNMRでは測定が困難であった。そこで、マルチモード光ファイバーでレーザーを照射しながら暗状態のままNMRで簡便に測定できる手法を開発した。それと13C-NMRスペクトル法とを組み合わせることにより、Dronpaのフォトクロミズムの分子機構を解明した。






分子アンサンブル測定・解析研究
制御・開発グループと協力し、広範囲にわたる分子系が示す種々の複雑な現象・機能を局所的電子状態の協奏的連携として理解し統一的原理の構築を目指す。特に、「生体物質の機能の電子論的究明」を大目標の一つとして設定する。
  1. 放射光X線を用いた機能性分子システムの局所電子状態解析
    (1) 環境応答型細胞情報伝達系における分子間・分子内相互作用の研究
    研究担当者:城、中村(城生体金属科学研究室)
    細菌や菌類、植物の環境(光、酸素、栄養など)感知・細胞内情報伝達は、環境センサーとして働くヒスチジンキナーゼ(HK)と、レスポンスレギュレーター(RR)の二つのタンパク質間のATP 依存性のリン酸基転移反応を介して行われ、「二成分情報伝達系」と呼ばれる。現在、数千種もの二成分情報伝達系遺伝子が明らかになっている。本研究は、HKの環境因子感知の分子機構を明らかにすることを目的としている。環境変化に応答した細胞内情報伝達における、「ドメイン間の分子内情報伝達機構」、「HKのATP依存性自己リン酸化機構」および「HK-RR間におけるリン酸転移機構」を非共有結合相互作用の観点から解明する。昨年度から、ジフテリア菌Corynebacterium diphtheriaeのヘムセンサーシステムChrS/ChrA(HK/RR)を研究対象に取り上げた。ジフテリア菌はヒト上気道粘膜に感染する病原菌であり、宿主の血液ヘモグロビンのヘムを主な鉄源としており、ChrS/ChrAが周囲のヘム濃度を感知し、ヘム分解系(ヘムオキシゲナーゼ)遺伝子の発現を促進している。既に構築している大腸菌をホストとする発現系からのChrSを精製し、X線結晶構造解析を目指した結晶化を開始した。各種界面活性剤、ヘムの有無、ChrAの有無、ATPアナログの有無などの条件検討中である。また、環境(ヘム濃度)変化感知における大きな構造変化を見積もることを目的に、X線小角散乱実験を開始した。細胞膜を模倣したナノデスクに埋め込んだChrSを試料とするが、その試料調製に最適条件を検討中である。

    (2) 生体内の鉄輸送の分子論
    研究担当者:杉本、直江、城(城生体金属科学研究室)
    病原菌が鉄をホストのヘモグロビンから奪取する際に、いくつかのタンパク質・酵素が関与している。この生体内鉄輸送の分子論的な解明をめざして、鉄を三価から二価に還元する酵素Dcytb(University of British Columbia、 Grant Mauk教授との共同研究)と細胞膜を通して細胞内に取り込むヘム輸送タンパク質複合体の構造解析を開始した。Dcytbは6回膜貫通へリックスをもち、ヘムを二分子持つと考えられている。Mauk教授より提供された精製試料を用いて結晶化を開始した。ヘム輸送タンパク質は、可溶性でヘムを結合できるタンパク質、膜貫通二量体タンパク質とATP結合タンパク質二量体のヘテロ五量体で、ヘム結合タンパク質が運んできたヘムを、ATP分解エネルギーを用いて膜貫通タンパク質を通して細胞膜を通過させる。いくつかの病原菌の遺伝子を参考に、約10種類のヘム輸送タンパク質の発現系を構築した。大腸菌での発現量、複合体の安定性、水溶液中での分散などを指標にして、1種類のヘム輸送タンパク質複合体の精製標品を得た。その結晶化を開始した。

    (3) 電荷移動型分子性結晶における静電相互作用の可視化
    研究担当者:加藤、 高田(高田構造科学研究室)
    分子性導体α-(BEDT-TTF)2I3の135Kで起こる金属絶縁体転移の起源を電子レベルで明らかにするために、放射光粉末回折データから実験的に電子密度分布と静電ポテンシャルの可視化を行った。その結果、低温相では、I3分子内で静電ポテンシャルの局所的な変化を見いだした。これは、ET分子間の電荷不均化を示唆するものであると考えられる。また、絶縁層のI3分子と伝導層のET分子間には、伝導性を阻害する要因となるポテンシャルギャップが観測された。それに伴い、I3分子とET分子との間で、金属絶縁体転移に伴う電場ベクトルの明確な変化が見られた。電子密度分布からは、I3からET分子への電荷移動も確認することができた。今後、以上のような分子間および分子内静電相互作用の観点から、MI転移のメカニズムを議論する予定である。

    (4) 分子性物質を対象とした超低温高圧下X線回折装置およびX線磁気回折法の開発
    研究担当者:大隅、 高田(高田構造科学研究室)
    分子性物質において実現する多彩な基底状態の構造物性研究を実現するために、極限条件下X線回折実験の手法開発を行った。当初、ヘリウム循環型冷凍機とダイヤモンドアンビルセルの組み合わせで、分子性結晶の物性研究に必要な極低温領域での圧力実験を検討したが、実験技術的に困難であると判断した。そこで、ヘリウム連続フロー式クライオスタットと金属ベリリウム製クランプ型セルを組み合わせたシステムを採用し、試料を0.5GPaまで加圧した状態で1.5Kまで冷却できる超低温高圧下X線回折装置の開発を進めた。現在のところ、クライオスタットとクランプ型セルを立ち上げ、1.5K- 0.5GPaの極限条件を達成した。次のステップとして、二次元検出器を利用した回折実験手法の確立を行っている。平成22年度は、二次元回折像から積分反射強度見積もりにおいて、ベリリウム製シリンダーからの散乱の影響を除去するデータ処理法を開発した。今後、この方法をCCDカメラのテータ処理システムに組み込み、分子性結晶を対象とした極限条件下X線回折実験システムを完成させる。新たな高度化として、試料に印加する磁場を変調した際の回折強度変化を位相敏感検出する計測手法の開発を行った。その結果、入射X線の偏光を変調する計測手法と組み合わせることで、磁気散乱と四極子散乱とを分離計測することが可能になった。

  2. 軟X線発光分光、角度分解光電子分光によるアミノ酸・タンパク質、分子性結晶の電子状態の研究
    研究担当者:辛、高田、原田、田口、徳島、堀川(励起秩序研究チーム)
    ガスや固体を中心として発展してきた軟X線発光分光を生体溶液中の特定の元素の電子状態分析にも応用するため、装置開発、実験手法開発および新しいスペクトル解析手法の開発を行ってきた。タンパク質の代表例として、ミオグロビンを対象とした。ミオグロビンは、活性点に金属元素を一つしか含まないため、軟X線発光分光の元素選択性という特長を活かすことができる。また、活性点(ヘム)を取り巻くポリペプチド鎖についても、電子状態という視点で改めて考察するため、溶液中のアミノ酸とその重合鎖の研究を行った。一方、角度分解光電子分光を用いて、擬一次元分子性結晶の研究を行った。
    (1) 角度分解光電子分光による擬1次元有機導体の電子構造
    研究担当者:辛、高田、原田、田口、徳島、堀川(励起秩序研究チーム)
    TTF-TCNQとTSF-TCNQはともに典型的な擬1次元有機導体であり、降温に伴い電荷密度波(CDW)転移を起こす。TTF系についてはこれまでの角度分解光電子分光(ARPES)実験から、スピノン/ホロンバンドや温度変化に伴う非常に大きなスペクトル強度の移動などが観測されており、1次元性や強い相関の効果が議論されている。今回、ARPESの精密な温度変化を測定した。T*およびTgap はそれぞれCDWの1次元および3次元揺らぎが発達し始める温度に対応していることから、T*とネスティング条件およびギャップ形成と3次元揺らぎの間には強い関係があることが示唆された。TTF系においても同様の振舞が見られるが、TSF系と比べてスペクトル変化のエネルギースケールは大きくEF上の強度は非常に小さくなっており、電子相関の強さを反映していると考えられる。
    (2) 溶液中のアミノ酸、ポリペプチドの電子状態
    研究担当者:徳島、堀川、高田、原田、田口、辛(励起秩序研究チーム)
    一般的によく知られているように、タンパク質は、温度、圧力、pH等がある範囲の値から外れると、折りたたまれてまとまった(フォールディング)状態から、ほどけた(アンフォールディング)状態になってしまう。このような現象には、タンパク質の側鎖の電離、溶媒との水素結合などの相互作用が大きくかかわっていると考えられている。我々は、電子状態を調べることが可能な軟X線分光を用いて溶液中で起きる現象を観測することで、溶液中におけるタンパク質の性質と電子状態のかかわりを調べる研究を目指している。 これまでの研究で、軟X線発光スペクトルが、分子中の官能基の電離によって大きく変化することが観測された。例えば、酢酸分子にみられるpHによる軟X線発光スペクトルの大きな変化は分子軌道計算の結果との比較から酢酸のカルボキシル基の電離による電子状態変化であることが確認された。この結果は、軟X線発光分光法の持つ元素選択性やサイト選択性を利用して、分子内の特定の官能基などの部位を選んで観測することが可能であることを示している。同様のpHによる軟X線発光スペクトルの変化は、リシン、リシン、システインなどのアミノ酸でも観測されていて、分子軌道計算の結果などとの比較を行っているところである。 本年度は、さらに分子軌道の情報をより詳細に得るために、直線偏光させた軟X線を利用した測定手法を開発した。気相分子や真空中の清浄表面に整列して吸着した分子においては、顕著な偏光依存性が観測され、以前から偏光依存性を利用した研究が行われているが、溶液中の分子のようなランダムで相互作用の強い系においては偏光依存性は観測できないものと思われていた。我々は、溶液中の分子において、顕著な偏光依存性が現れる場合があることを世界で初めて確認した。下の図に示したのは、有機溶媒(アセトニトリル)中の酢酸の軟X線発光分光法による観測結果である。上のグラフが、直線偏光の電場ベクトルを観測軸に対して垂直方向で観測した場合、下のグラフが電場ベクトルを観測軸に対して水平方向にした場合のスペクトルである。励起光の電場ベクトルと分子の向きによって吸収しやすさが変化するため、ランダムな溶液中の分子から特定の方向を向いた分子が選択され、それによって、偏光依存性が現れる。偏光依存性の測定によって溶液中分子の分子軌道対称性を実験的に分類することが可能になったため、今後の溶液中での相互作用の研究へと応用し、相互作用による分子軌道の変化とらえる実験研究を進める予定である 。



    (3) 大規模数値計算による金属タンパク質の電子状態の理論解析
    研究担当者:田口(励起秩序研究チーム)
    本研究では、金属タンパク質中のヘムおよびその周辺での局所構造とそこでの電子状態との関係を、鉄の3d電子間相互作用(電子相関効果)を近似を行うことなく正しく取り扱うことによって理論的に明らかにし、電子状態に対する局所構造とより大きなスケールでの構造の関連を理解し、金属タンパク質の「機能」発現のメカニズムを電子状態をもとにしたミクロなレベルで解明することを目指している。平成22年度は、鉄およびポルフィリン環を考慮した鉄・ポルフィリンクラスター模型(鉄の5個の3d軌道と、ポルフィリン分子中の24個の窒素・炭素原子の2sと2p原子軌道とを考慮した模型)のプログラム開発を行い、その開発がほぼ完了した。

  3. 機能性分子系の局所磁気状態の解明
    STMを用いた単一スピン検出
    研究担当者:小野、花栗、木(高木磁性研究室)
    原子や分子内に局在する個々のスピン状態を調べるために、電子スピンノイズ走査トンネル顕微鏡(ESN-STM)を立ち上げている。この装置は静磁場中におけるスピン歳差運動をSTMのトンネル電流を通して検出する手法であり、既にいくつかの研究グループによって、スピンの位置とg値を求めた例はあるが、観察条件や信号強度の観点から再現性に乏しく、信憑性にかける。 そこで本研究ではESR-STMを一つのスピン検出手法として確立させるために、STMの高安定化、試料作製および観察条件の制御性向上、微弱な信号検出の高効率化をそれぞれ、超安定STMヘッド、超高真空・低温・高精度磁石、低温低雑音増幅器などの組み込みにより行った。その結果、STM/STSが3日間安定して測定できる装置であることが確認された。さらに、改めてスピン検出に適当な試料の検討を行ったところ、水素終端Si(111)表面が適当であることがわかった。この表面はシリコンのダングリングボンド(DB)が水素で終端されているため、STM探針により水素を脱離させると不対電子を持つDBが生成されるため、スピン信号検出の可能性がある。また、この表面は化学的に安定であるため、基板と吸着分子の相互作用が小さくより自由な状態の分子観察に向いている。 現在、STM探針による単一のDB生成が確認されており、DBの電子状態を含めてH-Si(111)表面の評価を行っている。今後は金属錯体やフリーラジカルなどの既存の物質から、加藤分子物性研究室や侯有機金属化学研究室で新たに作られる分子についても観察を検討している。

    収量検出磁気共鳴・過渡光吸収検出による2・3 スピン連携
    研究担当者:坂口(化学分析チーム)
    有機半導体では、電子の担い手はラジカルイオンである。ラジカルイオンは奇電子によるスピンを持ち、電極界面では正・負のラジカルイオン対が形成される。このスピン対は一重項または三重項状態で、電荷再結合過程は多重度により変化する。このスピンを磁気共鳴の手法を用いて操作することで、ラジカルイオン対の挙動を制御し、電子移動過程の詳細を明らかにすることができる。  強磁性体である鉄を用いた電極形成を試みてきたが、SiOと同様、ほぼ蒸着条件を設定できた。しかし、両者とも大電流注入部の真空漏れにより頓挫している。その間に、Ir(ppy)3をゲストとする、燐光性有機EL素子製作条件を探索し、ほぼ満足できる素子を得られるようになった。今後、発光強度、電流などについての外部磁場効果を測定する予定である。また、ホスト-ゲスト間のエネルギー移動効率を変化させるため、三重項レベルがより高いゲスト分子を合成中で、今後比較する予定である。蛍光性有機EL素子について、超伝導磁石を用いた高磁場での磁場効果測定を試みている。まだ精度が乏しいが、高磁場では発光強度が減少していると思われる。

  4. 分光法による機能性分子系の研究:界面選択的偶数次非線形分光の応用
    研究担当者:Mondal、山口、田原(田原分子分光研究室)
    我々は一群の新しい界面選択的な非線形分光を開発してソフトな界面、特に液体界面の研究を行っている。中でもマルチプレクス電子和周波(ESFG)分光は、溶液中の吸収スペクトルに匹敵する高い質で界面分子の電子スペクトルを測定できる強力な方法である。最近、さらにこのESFG分光を発展させてヘテロダイン検出を実現し、約100nmという広い波長範囲で一度に界面分子の二次の非線形感受率(χ(2))スペクトルの実部と虚部を測定できるHD-ESFG分光法を開発した。今年度は、空気/水界面での溶媒和の不均一性を検討するため、空気/水界面で測定された電子スペクトルのバンド形に対する定量的解析を世界で初めて行った。まず、我々は溶媒和発色を示す色素分子(クマリン)の空気/水界面での電子スペクトル(χ(2)スペクトル)をHD-ESFG法を用いて高い精度で測定した。一光子非共鳴・二光子共鳴条件下で測定されたこのχ(2)スペクトルの虚部(Imχ(2)) は、バルク溶液中の紫外可視吸収スペクトル(χ(1)の虚部スペクトルに対応)と直接比較できる電子スペクトルである。そこで、このImχ(2)スペクトルを、無極性溶媒中で測定した紫外可視吸収スペクトルから得られる溶質のスペクトル形関数とガウス型関数で近似した溶媒和シフトの分布関数のたたみ込みによってフィッティングしたところ、実験データを大変良く再現できることがわかった。これによって定量的に、遷移周波数の中心値とその分布(スペクトル広がり)を求めることができた。その結果、空気/水界面における溶媒和シフトはプローブに用いる溶質分子の種類によっても変わることが確認されるとともに、そのスペクトル広がりは、同程度の実効的極性を示すバルク溶媒はもちろん、バルク水中でのスペクトル広がりより大きいことがわかった。このことは、空気/水界面における溶媒和エネルギーの分布が、バルク溶媒中のそれより広いことを示している。空気/水界面において溶質分子が得る溶媒和エネルギーは、溶媒の配向・位置のみではなく、溶質自身が異方性の強い界面でどのような配向や位置をとるかにも強く依存すると考えられる。この界面特有の状況を反映して空気/水界面での溶媒和エネルギー分布はバルク溶液中に比べ広くなっていると結論された。



  5. 多重極限μSR実験装置の開発研究
    研究担当者:松崎、渡邊(岩崎先端中間子研究室)
    分子性物質のスピンダイナミクスの微視的研究手法の高度化のため、理研RALミュオン施設(英国 Rutherford-Appleton 研究所(RAL)内に設置)においては、極限条件下におけるミュオンスピン緩和(μSR)法の開発を進めている。本研究グループの最大の開発要素は、この極限条件μSRを可能にする新しい分光器の開発および設置である。

    (1) 新しいμSR分光器の開発
    研究担当者:松崎、渡邊(岩崎先端中間子研究室)
    平成22年度は、前年度までに製作・設置を完了した分光器の、標準試料を用いた性能試験を行った。図21は、銀の横磁場回転μSR スペクトルである。データレートは120 MEv/hrで、ポート2で使用している既存の分光器よりも高いデータレートである。現在、実験エリアにクライオスタットなどを設置して実験を行うための実験プラットフォームを建設しており、2011年夏以降には本格的な実験を実施できるよう作業を進めている。



    (2) ガス加圧型汎用測定装置開発
    研究担当者:渡邊、石井(岩崎先端中間子研究室)
    一方、ポート4の建設と同時に進めているガス加圧型高圧装置の汎用的活用に関しても作業が進んでいる。高圧μSR用に開発したガス加圧装置を用い、かつRAL側のμSR用超伝導磁石(HiFi Magnet)を用いることで、2つのユニークな装置の開発を手掛けている。一つはSQUID装置に組み合わせることによって5kbarまでの高圧下磁化率測定を実施できる装置。もう一つはRAL側ビームラインに設置されているHiFi Magnetと組み合わせることによって高磁場・高圧下における輸送現象(ホール効果や電気伝導)を測定できる装置である。ともにRALの高圧グループと協力しデザインを進めてきた。既に高圧印可用のCenter Stickおよび高圧セルの制作が開始され、2011年夏以降に実際の試料を用いた測定を開始できる見込みである。
     図23に制作中の高圧セル用Center Stickを示す。高圧セルはCuBe製で、通常の静水加圧型のセルを基本とした設計としている。ガス圧導入部分のネジなどを工夫するなどしてガス加圧が可能になるような改良を施している。SQUIDは日本より専用のものを持ち込む計画である。HiFi Magnetを用いた高圧装置は、磁石専用のクライオスタットに設置可能なサイズで設計しており、ビームサイクル間の磁石を用いない時期に利用することによって実験を遂行できるよう計画している。磁石活用の方法に関してもRAL側との調整を進めており、今後、世界で唯一のユニークな測定条件を実現することを可能にする。

    (3) 量子スピン液体の基底状態の研究
    研究担当者:石井、渡邊(岩崎先端中間子研究室)
    これら技術的な開発に加えて、μSRによる量子スピン液体の基底状態の研究を展開している。三角格子反強磁性体EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2は量子スピン液体が実現している可能性が指摘されている。この物質の磁気交換相互作用の大きさは220-250 Kであることがわかっているが、NMR測定からは20mKという低温まで磁気秩序の兆候が見つかっていない。我々は、この物質の基底状態を調べるために、NMRでは不可能な零磁場環境下での磁気緩和測定手法である ZF-μSR 実験を行った。図24に80K および0.3K で測定したZF-μSRスペクトルを示す。100K以下ではμSRスペクトルにほとんど変化はなく、0.3Kまで磁気秩序形成の兆候は見られなかった。また、0.3Kから100Kという幅広い温度範囲において、スピン揺らぎの効果を示唆するスペクトルが観測された。このスピン揺らぎの存在を確かめるため、ミュオンスピンと並行方向に磁場を印加してミュオンスピン緩和を観測するLF-μSRを行った。図25に0.3KにおけるLF-μSRスペクトルを示す。実験限界である約4kGにおいても有限のミュオンスピン緩和が観測されたことから、ミュオンスピンによって検出できる周波数範囲(106〜1011 Hz)の電子スピンの揺らぎが存在することが確認された。