昔の研究内容

昔の研究内容

博士課程(京都大学理学研究科)

大学学部生から博士課程修了まで京都大学理学研究科の分子分光学研究室に在籍しています.主に百瀬孝昌助教授(現UBC教授)の指導のもと,固体水素に関連した分子の分光を研究していました.その他,志田忠正教授,若林知成助手,鷲田伸明教授の指導を受けています.

(2002年2月の集合写真.一番右手前)

当時やっていた研究は,固体水素の中に分子を捕捉し,その赤外吸収スペクトルから極低温状態での分子の運動や,固体中での相互作用,さらにトンネル効果による化学反応などを観測していました.化学というより,仕事的には低温物理に近かったような気がします.おかげで,クライオスタットの作り方や低温の技術,真空系などの勉強ができました.

(実験装置概観:銀色の物体がクライオスタット,左の装置が高分解能FT-IR)

実験装置は固体水素を低温で生成するためのクライオスタット.そして,生成した結晶の赤外吸収スペクトルを測定するためのFT-IR分光器がメインです. FT-IRはBruker社の高分解能FTで,最高分解能は0.0035cm-1とFTとしては世界最高のスペックを持っていました.

学生時代の主要な研究テーマな主に以下の2つです.

固体パラ水素中に捕捉した分子の赤外および紫外吸収スペクトルの解析

一般に凝縮相中では、強い分子間相互作用によってスペクトルの線幅が広がるために高分解能分光が困難であるが、量子固体である固体パラ水素中では分子間相互作用が弱く、捕捉分子まわりの結晶構造の乱れがほとんど無いので、高分解能分光が可能である。実際、固体パラ水素中に捕捉した分子のスペクトルは希ガス中に比べてはるかに細い線幅を持ち、各振動モードにおける回転構造だけでなく、パラ水素とゲスト分子間の相互作用による分裂までも分離して観測することが出来る。その結果、捕捉分子と水素分子間の分子間相互作用や捕捉分子の運動状態などに関する新たな情報を得ることができる。CD4,CD3,C3という大きさや対称性の異なる分子を固体パラ水素中に捕捉し、それらの高分解能振動回転スペクトルを解析しました。例えば図1は固体パラ水素中に捕捉したCD3の 赤外吸収スペクトルであるが、これら多数の吸収線は分子の振動回転線が固体中で周囲の水素分子から摂動を受けることによって分裂したものである。結晶の対称性と分子の対称性を考慮した振動回転の波動関数とハミルトニアンをもちいて、観測されたスペクトルに対し最小二乗フィッティングを行うと、回転定数やコリオリ定数などの分子定数や、分子が結晶から受ける異方的なポテンシャルの大きさなどのパラメーターを求めることができる。そして、それらの値から固体水素中の分子の運動状態や分子間相互作用に関する情報を引き出すことができる。
回転定数を例にとると、固体水素中のメタンやメチルラジカルの回転定数が気相に比べて1~2割程度小さいことを明らかにした。これは固体水素中の分子が回転運動をするときに周囲の水素分子の格子振動を誘起しているためであり、回転定数の減少にはその格子振動の運動エネルギーが繰り込まれて観測されていると考えられる。

図1 固体パラ水素中のCD3の赤外吸収スペクトル(n3)

固体水素中に捕捉した分子のトンネル化学反応に関する研究

極低温における化学反応の研究は、化学反応の本質を追究する手段としてだけでなく、星間分子雲内での化学反応を理解する上でも着目されている。従来の研究では、星間空間の反応は衝突断面積の大きいイオン-分子反応がほとんどであると考えられてきたが、最近になってそのような極低温環境下では中性分子同士のトンネル反応も無視できないことがわかってきた。しかし、トンネル反応は室温では熱反応の陰に隠れてしまうため、直接的に観測するためには極低温環境下で起こる反応を観測しなければならない。
 本研究では固体水素中でメチルラジカルの関与するトンネル化学反応を直接検出した。図2は固体パラ水素中に捕捉したメチルラジカル(CD3)を一週間放置した時の赤外吸収スペクトルの時間変化であるが、メチルラジカルの吸収が時間とともに減衰し、それに伴ってメタンの吸収が増加することが明らかになった。これは、固体水素中でメチルラジカルが周囲の水素分子と反応してメタンを生成している為と考えられる。
R +H2 → RH + H
この反応の障壁ポテンシャルは約4000Kであり、5Kの固体水素中で分子がこのポテンシャルを熱的に越える事は不可能である。したがって、図2のスペクトル変化は純粋トンネル効果によって化学反応が進んでいる様子を直接検出したものであると結論できる。このようにラジカルと水素分子間の反応という、多原子分子同士のトンネル反応を直接観測した例はほぼ初めてである。
さらにメチルラジカルをCD3から他の重水素置換体(CD2H、CDH2、CH3)に変え、その反応速度の変化を観測した。その結果、分子が重水素化されるにつれてトンネル反応速度が増加していることが明らかになった。これは、古典的な反応のモデルでは説明できない量子的な効果である。この実験結果を理論的に説明することは難しく、反応曲面の高度な量子化学計算が必要である。
図2 固体パラ水素中に捕捉したCD3とCD3Hの赤外吸収スペクトルの時間変化

学位論文


ポスドク時代(南カリフォルニア大学理学部)

Ph.Dの学位取得後,南カリフォルニア大学のA,Vilesov教授のもとにポスドクとして赴任しました.Vilesov教授はマトリックス分光として新しい手法であるヘリウムドロップレットのパイオニアであり,ドイツからアメリカに渡ってきて数年,教授になった直後の,初めてのポスドクが私でした.

(研究室のメンバー.左から二番目がVilesov教授)

研究室の規模は非常に小さく,学生はたったの3人,私の他は全員ロシア人でした.実験装置はHeドロップレットを作る装置が2台と,分光用のレーザーが2台という小規模な物でしたが,周りのロシア人があまり働かなかったので実験はやりたい放題できました.

(実験装置.左奥がHeドロップレットのビームを作るチャンバー.
手前の箱が赤外のOPO(Laser Vision))

分光は主に赤外領域で分子の振動スペクトルを解析していました.赤外を効率よく出せるレーザーとしてLaserVisionという会社のOPO/OPAを使っていたのですが,これが非常に優れもので,3ミクロンで6mJくらいの出力がありました(分解能0.1cm-1).これだけパワーが強いとHe液滴中の吸収もサチりますので,それを使った面白い分光もできました.さらに固体水素をラマンシフターとして使うことで,8ミクロンくらいまで分光することが可能でした.
ボスのVilesov教授は私に常にディスカッションしながら研究を進めることを要求していました.毎日のように研究について話し合っていたような気がします.おかげで,いろいろな意味で勉強になりました.

極低温ヘリウム液滴中に捕捉した分子クラスターの分光


分子クラスターは、単一分子と液体・固体の凝縮相との中間にあり、その物理化学的性質を研究することは、ミクロとマクロを結びつけるという未開の問題を解明する上での手がかりになると考えられている。しかし、安定して大きな分子クラスターを作ることは難しく、実際に巨大クラスターの分光を行った例はほとんど無い。
He液滴分光法は液滴中に捕捉できる分子の種類に制限がほぼ無いため、新しいマトリックス分光法として近年注目されている。特に液滴中に捕捉される分子数はサンプルの圧力によって容易にコントロール出来るため、He液滴法は分子クラスターの研究に適している。
本研究ではこのHe液滴の特性を利用し、これまで生成が難しく研究例のない大きな分子クラスター(クラスターサイズn=10~数千)の分光研究を試みた。具体的にはメタン分子のクラスター((CH4)n,n=10~10000)を生成し、その振動回転赤外吸収スペクトルの観測を行った。その結果、クラスターが一定以上の大きさになると、スペクトルから回転構造が消失し、固相メタンと異なる新たな位置に吸収が現れることがわかった。これは、クラスター中での分子の回転運動がそのサイズに大きく依存していることを示している。

図3 液体ヘリウム液滴中で生成したメタンクラスター(CH4)nの赤外吸収スペクトル

He液滴中で観測されたCO2の振動回転スペクトルのサテライトバンド


超流動He液滴はその中に容易に分子を単離して捕捉し高分解能分光できるため,新しいマトリックス分光法として近年盛んに研究されてきた.He液滴中で分子はほぼ自由に回転運動しており,回転状態のよく分離されたスペクトルを得ることができる.そのため,観測された回転スペクトルは気相分子と同じハミルトニアンを用いて解析されてきた.しかし超流動液体中といえども捕捉された分子と周囲のHe原子間にはわずかに相互作用が働いており,その結果回転定数Bが減少し,遠心力歪み定数Dが増大して観測される.これまで様々なモデルを用いて,これらの分子定数の変化を説明しようと試みられてきたが,実測の分子定数の変化を定量的に説明することは難しかった.
本研究では,He液滴中に捕捉されたCO2の赤外吸収スペクトルを測定した.(図1)He液滴中に捕捉されたCO2分子は固体パラ水素ラマンシフターによって生成したパルス中赤外レーザー光(2350cm-1)により励起され,その緩和により液滴中のHe原子が蒸発し、液滴のサイズが減少する。この液滴サイズの減少を四重極質量分析計のシグナルの減少として観測することで、液滴中のCO2の吸収スペクトルを測定することができる。図2は測定された v3振動回転スペクトルである.強い振動回転線R(0)の14cm-1高波数側に弱いブロードな吸収(サテライトバンド)が観測された.
我々はこの吸収をCO2分子と周囲のHe原子集団の同時励起によるものだと考えた.前述の分子定数の変化は,量子力学的にはCO2と周囲のHe原子集団の回転運動がカップルし,エネルギー順位が変化した結果であると考えることができるが,それと同時に波動関数の混ざり合いの効果でHe集団の励起がダイポールモーメントを持つことが予測される.我々は2次元のシンプルなモデルを使い,実測の回転定数の変化に対応するエネルギー順位の変化を求めた.その結果He集団の回転運動のエネルギーや振動子強度は我々が観測したサテライトバンドの位置や強度とよく一致していることがわかった.このようなHeの素励起を直接観測した例はこれまでない.


文献


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