量子効果がスピンアイスを融解する: 磁気秩序を伴わない時間反転対称性の破れと自発的ホール効果
磁気双極子秩序を伴わない時間反転対称性の自発的破れが、幾何学的フラストレーションを有する磁性体Pr2Ir2O7において、東京大学物性研究所のグループとの共同研究によって世界で初めて発見された[1]。この系ではキラルスピン液体がスピンアイスの融解によって生じた可能性が示唆される。また、これに関連した磁性体において、磁気モーメントの量子性を伴ったスピンアイスの融解を示す実験事実が報告されている。ではスピンアイスはどのように量子的に融解するのだろうか?理論的なシナリオを提案する[2]。
References*:
1.
Yo Machida, Satoru Nakatsuji, Shigeki Onoda, Takashi Tayama, &
Toshiro Sakakibara,
“Time-reversal symmetry
breaking and spontaneous Hall effect without magnetic dipole order”,
Nature
advanced online publication, 9 December 2009.
2.
Shigeki Onoda & Yoichi Tanaka,
“Quantum melting
of spin ice into spin smectic with cooperative quadrupole and chirality”,
preprint (ArXiv:0907.2536).
金属磁性体において、時間反転対称性を自発的に破るが、通常その原因となる電子スピンの整列・秩序は伴わない新しい状態(キラルスピン状態)が、ゼロ磁場でのホール抵抗の観測から発見されました。
固体物質の状態は、その物質中の多数の電子が示す性質によって大きく決定されます。熱平衡状態における電子状態は、通常、時間反転対称性を持っています。つまり、すべての電子の運動の向きを反転させた状態は、元の状態と全く同じ性質を示します。ところが、この時間反転対称性は自発的に破れる場合があることが知られています。その典型例が、電子のスピン角運動量(電子の自転自由度)や軌道角運動量(電子の公転自由度)における回転運動の向きのバランスが崩れ、物質が永久磁石としての磁化をもつ強磁性体などの場合です。ところが、時間反転対称性が破れるのは、このような磁気秩序が発生する場合に限られていません。巨視的な磁化が観測されなくても、近接する3つの電子のスピンが右手系と左手系のどちらをなすかを表すスピンキラリティーが巨視的スケールで発生する場合にも、同様に時間反転対称性の破れが巨視的に観測されます。我々は、プラセオジウムとイリジウムの金属磁性体酸化物を極低温まで冷却することによって、ゼロ磁場でのホール抵抗の観測を通じて、磁気秩序を伴わない時間反転対称性の自発的破れを示す新しい熱力学相を発見しました。本研究成果は、平成21年12月9日(オンライン版)発行の英国の科学雑誌『Nature』に掲載されます。
これまでに、磁気秩序を伴うことなく時間反転対称性が自発的に破れる可能性は、銅酸化物高温超伝導が生じる機構および背景に関連して、理論的にも実験的にも盛んに研究されてきました。巨視的な数の電子が相互作用する中で、電子スピンが量子力学的に揺らぐ効果のために、秩序を形成する主体がスピン自身からスピンキラリティーに交替する可能性が提案されていました。しかし、理論的にも実験的にもその存在の確証を得るには至っていません。
一般に巨視的スケールでの時間反転対称性の破れを検出する一つの重要な手段として、異常ホール効果という現象を通じた測定手段があります。金属・半導体では、磁場を印加し、これに垂直に電流Iを流すと、磁場と電流の両方に垂直な方向に電圧降下VHが生じます。これはホール効果と呼ばれる固体の最も基本的な輸送現象の一つで、応用上も重要な意味を持っています。一方、金属強磁性体などでは、電子のスピン角運動量や軌道角運動量が整列することによって磁化が発生します。この磁化が磁場と類似した役割を担い、磁場を印加することなくして時間反転対称性を巨視的に破り、ホール抵抗を発生させます(図1A)。この現象が異常ホール効果です(異常ホール効果の理論的・実験的研究に関する最近の包括的なレビューが、近々米国誌『Reviews of Modern Physics』から出版される予定です)。同様な現象は、スピンキラリティーによっても誘起されます。しかし、これまでに報告されてきたホール効果はどれも、外部磁場を印加することによって出現するものか、あるいは、巨視的磁化を伴う磁気秩序が存在する相で出現するものに限られていました。したがって、磁性体における巨視的スケールでの時間反転対称性の自発的破れは、巨視的磁化が発生するような磁気秩序の形成に伴うものに限られていました。
今回、我々は電子スピンの整列秩序がなくてもゼロ磁場で自発的にホール効果が出現する状態(図1B)を、世界で初めて発見しました。その対象となった物質は、一般に幾何学的フラストレーションを持つ磁性体と呼ばれる物質群のひとつで、Pr2Ir2O7という化合物です。この物質は主に磁性を担う元素としてプラセオジウム(Pr)を含みます。しかし、幾何学的フラストレーションの効果により、Pr原子、ないしPr3+イオンの持つ磁気モーメントは低温でも秩序化を示しません。代わりに絶対温度Tf = 0.3
K (ケルビン)において、ガラス化にともなう凍結現象を示します。今回、詳細なホール抵抗および磁化測定から、絶対温度TH = 1.5 K以下、凍結温度0.3 K以上という、Prモーメントが磁気秩序・凍結現象を示さない温度領域において、ゼロ磁場でホール伝導度が自発的に現れる現象を見出しました(図2)。
図1 A) 強磁性体における異常ホール効果。自発磁化は相対論的スピン軌道相互作用を通じて仮想的な内部磁場bを生成し、電子の運動方向を電流に垂直方向に曲げます。 B) 磁気秩序を伴わないホール効果。ゼロ外部磁場(B
= 0)の自発磁化Mのない状態においてもホール効果が自発的に出現することがあります。この場合、電子の運動を曲げる要因となる仮想的な内部磁場bは、スピンキラリティーの秩序化によってもたらされます。ゼロ外部磁場の自発磁化のない状態においてもホール効果が自発的に現れることから、スピンキラリティーの秩序形成が一つの可能な起源として考えられます。
図2 各温度で測定した7 T (テスラ)までの磁化過程から見出されたゼロ磁場での残留ホール伝導度と残留磁化の温度依存性。スピン凍結温度Tfよりも高温のTH~1.5 Kから自発的に残留ホール伝導度が現れる。スピン凍結に伴って残留磁化はTf以下で有限になる。
ではなぜこのような「磁気秩序を伴わない時間反転対称性の破れ」が発生するのでしょうか?我々は、最近執筆した論文で指摘している通り、パイロクロア格子系磁性体Pr2M2O7 (M
=Ir, Sn, Zr)に共通して見られる以下の事実に着目し、理論的有効量子模型の導出とその解析を行いました。そこでは、以下で説明する通り、水の凍結現象に現れる幾何学的フラストレーションと、電子の量子性の二つの要素が重要になっていると考えられます。
水H2O分子が結晶化した氷では、H+イオンがパイロクロア格子構造(図3A)の頂点の位置から少し変位します。水素結合のために、その変位の向きは、この点を共有する2つの正四面体の中心に位置するO2-イオンのうち、どちらかの向きに制限されます。つまり、正四面体の4つのH+イオンのうち、2つが中心方向内側に、残り2つが外側に変位するわけです(図3B)。このように、各O2-イオンが結合する相手である二つのH+イオンの選び方は、各酸素あたりに6通りあります。これが結晶全体では、巨視的な場合の数として現れます。
氷の場合と類似した幾何学的フラストレーションが、パイロクロア格子系磁性体R2Ti2O7 (R =Dy, Ho等)でも観測され、スピンアイスと呼ばれています。
図3:A) パイロクロア格子構造。正四面体のネットワークを構成する赤丸は、氷ではH+イオンの基準位置、Pr2M2O7ではPr3+イオンが位置します。 B) 正四面体における
“2-in, 2-out” 構造。氷ではH+イオンが、磁性体では磁性を担うイオンの磁気モーメントが正四面体の中心方向を向き、4つのうち2つが内側、2つが外側を指します。
Prイオンを構成要素に含んだパイロクロア格子系磁性体Pr2M2O7 (M
=Ir, Sn, Zr)は、上述の古典的スピンアイス系に、比較的大きな量子揺らぎが導入された系としてとらえることができます。Pr3+イオンに束縛された磁気モーメントの向きは、パイロクロア格子の構成要素である正四面体の頂点から中心に向かう方向に拘束され、in/outの2自由度(非クラマース磁気的二重項)をもったイジングスピンで記述されます。この点は古典的スピンアイス系R2Ti2O7 (R =Dy, Ho等)と共通しています。特に、Pr2Ir2O7の良質の単結晶を用いた実験では、極低温で[111]方向の印加磁場下でメタ磁性転移(図4)を起こします。これは2-in, 2-out構造をとる各正四面体で1つのスピンが磁場と反対方向を向いていたものが、磁場の方向に強制的に反転し、3-in, 1-outあるいは1-in, 3-outの構造に転移するときに生じる現象です。これは、各正四面体がゼロ磁場で主に2-in, 2-outの配置(図3B)をとり、スピンアイス則がある長さ・時間スケールで満たされていることを示唆しています。メタ磁性転移の磁場スケールからモーメント間の有効強磁性結合定数は1.4 K(〜1.6 meV)と見積もられました。また、これらの物質の多くは、古典的スピンアイス系と異なり、磁化率が発散的な振る舞いを示しません。Prイオンの磁気モーメントは、Dyイオンの場合の1/4〜1/3と小さいことから、磁気双極子相互作用が0.1K程度と1桁小さな値になっています。したがって、量子力学的な超交換相互作用が主要な相互作用となることが想定されます。実際、Sn系における中性子散乱実験では、磁気的なBraggピークが出現しません。また、一見古典的スピンアイス系と類似しているものの、非弾性散乱スペクトルが0.2 meV程度(上記の有効相互作用と同程度)までの広いエネルギー領域に強度が大きく分布しています。これは、古典スピンアイス系に比べて磁気モーメントの量子揺らぎが極めて大きいことを意味しています。このように、幾何学的フラストレーションと量子揺らぎの両方があることで、従来型の磁気秩序がおさえられ、代わりに、スピンの高次の自由度であるスピンキラリティーの秩序によって時間反転対称性を巨視的に破る、キラルスピン液体が実現している可能性が考えられます。また、スピンアイス則を満たし、かつ、磁化がゼロになるという制約の下で、キラルスピン構造を実際に作ることが可能であることを例証し、その場合に実際にホール効果が発生することを理論計算から示しました。
図4 A) 3つの隣接する非共面な配置をとるスピンによって、スカラースピンカイラリティーkijk = Si・Sj×Skが定義されます。B) Pr2Ir2O7の結晶構造。Pr原子(赤丸)とIr原子(緑丸)はそれぞれパイロクロア格子を組みます。Prモーメントは各四面体の重心方向に向くか、それとは反対方向に向くかの2通りの自由度しかもたないイジングスピンです。青と赤の矢印で示されるモーメントを持つPr原子の位置では、零磁場では青色の向きが安定で、二つのスピンが内向き、二つのスピンが外向きという、所謂、スピンアイス則を満たしていると考えられます。[111]方向の磁場中ではメタ磁性転移を経て赤色の向きが安定化します。[100]および[110]方向の磁場下ではメタ磁性転移を起こしません
さらにスピンアイスが量子融解したこの状態は、液晶との類似性を示すことがわかってきました。液晶では、非極性分子の配向の仕方、分子の配列の仕方によって、多様な分類がなされています。特に、分子の配向が秩序を形成したものをネマチック液晶、さらに光学活性ないしキラリティーをもって分子が配向したものをコレステリック液晶、分子の位置にもある種の秩序が形成されたネマチック液晶を、スメクチック液晶などと呼んでいます。最近の我々の理論的研究の結果は、スピンアイスが量子融解した状態では、スピンのスメクチック液晶が実現することを示唆しています。
図5 正四面体を構成する4つの磁気モーメントの和が、近接する正四面体間で互いにどのように並ぼうとしているかを示しています。赤色は磁気モーメントが向きやすい領域、青色は向きにくい領域を意味します。空間の方向によって磁気モーメントが揃いやすい方向が異なりますが、全体としては±z方向に向きやすくなっています。その結果として、結晶はz方向に少し圧縮された形になります。
また、さらに正四面体ごとの量子状態が、正か負かのキラリティーでラベルすることができることも分かっています。スピンアイスが量子融解した状態では、キラリティーは図5に示した正四面体間で、逆符号になろうとすることもわかりました。ここでは再び水の凍結現象で見られるのと同様の幾何学的フラストレーションが発生しています。巨視的スケールで時間反転対称性を自発的に破ったキラリティーの凍結状態、カイラリティーアイスが実現する可能性も考えられます。
本研究成果は日本発のものでもあります。時間反転対性を自発的に破るスピン液体の全貌の理解、さらに新しい物質の状態の探索に向けて、今後さらに理論的・実験的研究が計画されています。
量子状態を記述する波動関数の示す物理的性質が、波動関数を特徴づける波数や軌道角運動量・スピン角運動量を全て反転する操作の下で、完全に不変であること。
磁性体とは、内部に各電子の回転運動に起因した微小な磁石(スピン)を有する物質である。通常冷却すると、巨視的な数の電子スピンが何らかのパターンで整列する磁気秩序を示す。主として、磁石としての巨視的な磁化を示す鉄・コバルト・ニッケルなどの強磁性体、磁化が内部で打ち消されている反強磁性体、スピンが秩序化しない常磁性体などに分類される。
電子のスピンは向きをもっているが、物質中で近接する3つの電子スピンが立体構造をとる場合、そのスピンが見込む立体角に、左手系ならプラス、右手系ならマイナスの符号を掛けたものをスピンキラリティーと呼ぶ(図4 A)。結晶構造のキラリティーとは独立に、スピン空間に右手系と左手系の区別をもたらす。
正三角形の頂点上に束縛された電子スピンが、上下の向きしか取れないとき、隣り合うスピンは必ず反対向き(反強磁性的)にしかとれないことがある。この場合、どうしても配列がひとつにさだまらず、スピンはフラストレーションを感じる。このように、三角形を基調とした構造を持つ磁性体は、その構造ゆえにすべてのスピン対に好まれる関係を完全には充足できない。このことを幾何学的フラストレーションと呼ぶ。
反強磁性体である母物質の銅酸化物セラミックスに、電荷キャリアーを注入することによって発現する超伝導(ゼロ抵抗現象)で、絶縁体近傍に出現する超伝導として基礎科学的に極めて重要であるとともに、転移温度が高い(圧力下で最高約―140℃)ために一部応用にも用いられている。
古典的には同時に決定できるような物理量のなかには、量子力学では同時に精密に決定できない組み合わせが存在する。角運動量のx、y、z成分もその一つである。この場合絶対零度に冷却したとしても、相互作用する多数の電子の角運動量は、完全に回転の向きを決定できず、さまざまな回転運動状態の間を揺らいでいる。磁性体では、量子的磁気揺らぎとも呼ばれる。
磁性を担うイオンに束縛された各電子のスピンの向きが、時間的にも空間的にも一定の方向に留まらず、揺らいでいる状態はスピン液体と呼ばれている。特に、時間反転対称性を巨視的に破るスピン液体は、キラルスピン液体と呼ばれている時間反転対称性を破った電子スピンの液体状態。スピンの整列・秩序は伴わない。
解説記事: 東京大学物性研究所 中辻グループ